もと原発労働者・梅田さんの意見陳述書
11.11集会で梅田さんが当日読み上げられた意見陳述書をご本人の了解を得て転載します.PDFはこちらです.(豊島)
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平成24年(行ウ)第9号
意見陳述書
2012(平成24)年5月9日
福岡地方裁判所第5民事部合議B1係 御中
原 告 梅田隆亮
1 私の経歴など
私は,原告の梅田隆亮です。
北九州市で生まれ育ち,市内の大学を卒業した後,鋼材の加工・組立工事会社に就職し,その後,北九州市内で独立し,新日本製鐵の下請けとして,鋼材の加工・組立工事や配管工事等をしてきました。
2 原発での労働状況
私が島根原発と敦賀原発で作業したのは,昭和54年のことです。当時は,いわゆる「鉄冷え」により下請け工事の受注が激減し,生活に不安を抱えていたため,松江で稼ぎのよい仕事があると聞き,施設名も仕事内容もわからないまま,松江に行くことにしたのです。島根の施設が原発であることは,敦賀原発に行ったときに他の作業員から聞いて初めて気づきました。
島根原発では,放射性物質の危険性についての教育を受けたことは,一切ありません。放射線管理手帳はそもそも支給されてもいません。アラームメータを持たされてはいましたが,警報が鳴った場合の指示すらなく,結局警報が鳴っても無視して作業を続けていました。
敦賀原発では,炉心部近くで赤い作業服を着て,顔面をすっぽりと覆う全面防御マスクを付けて作業しました。ただ,粉じんを吸わないためのマスクだとしか思っていませんでした。建屋内の脱衣所で赤色の作業服に着替え,休憩室で簡単なミーティングをした後,マスクを装着し,アラームメータを持ち,歩いて管理区域内の道具置き場に行き,それぞれ指示された道具を手に,作業場となる炉心部へと向かうのです。炉心部に行くためには,2つの扉を通ります。1つめの重厚な引き戸の扉を開けると中には照明があり,暗がりというわけではなかったのですが,密閉状態でしたので,空気が淀んでおり,薄暗く感じました。
さらに,入口から15メーターくらい進んだところに2つめの扉があり,その奥に,私が作業していた炉心部があります。2つめの扉はすでに開いており,その扉に近づくにつれて段々と熱気を帯び,汗がにじみ出てきました。炉心部は,室温が40度から50度あり,湿度も高く,蒸し風呂状態でしたので,中に入った瞬間,体中が火照った状態となり,体中から汗が滝のように大量に流れ出て,たちまち下着がずぶ濡れになりました。全面防御マスクは付けているだけで酸素が薄くなり,息苦しかったのですが,さらに蒸し風呂状態の中でつけていたため,息苦しさが増し,すぐに意識が朦朧としてきました。その息苦しさは言葉では例えようがないほどつらく苦しいもので,1か月働いても全く慣れることはありませんでした。余計なことをすると体力が消耗するので,目の前にいる他の作業員に話しかけることもせず,ただこの場から早く立ち去りたい一心で作業ノルマをこなしていました。しかし,体力に自信のあった私でもその息苦しさに長時間耐えることはできず,マスクを外して作業せざるを得ませんでした。
持っていたアラームメータは炉心部に入ると,直ちに警報を発しましが,警報が鳴る度に作業を中断していては仕事にはなりません。そのため,線量の低い場所で待機している別の作業員にアラームメータを預けて作業することが暗黙の了解となっていました。今にして思えば,放射線管理者の職員がいたはずですが,誰が放射線管理者なのかも私たちには分からず,アラームメータを預けても注意されることはありませんでした。そんな状況でしたから,保管されている被ばく放射線量のデータなどでたらめだと思います。
これが,我々下請け原発労働者の実態です。
3 体調の変化及び労災申請の断念
私の体に異変が生じたのは,昭和54年6月,敦賀原発から北九州市に戻ってきてすぐです。腹痛,全身倦怠感,脱力感,吐き気,めまい,耳鳴り,鼻血といった症状が出たのです。特に吐き気がひどく,今まで経験したことのないものでした。1日のうち,3〜4回程度,突然胃がむかつき出し,胃液がこみあげてくるといった症状が,2か月近くも続いたのです。長年の肉体労働で体を鍛えており,人一倍健康には自信があったので,あまりの体調の急変に戸惑い,いくつかの病院を受診しましたが,はっきりとした原因は結局わかりませんでした。
その後,原発労働者の実態を書いた新聞記者の仲介で,長崎大学病院でホールボディーカウンター測定検査を受けたところ,放射性物質を被ばくしていることがわかりました。記者からは,帰宅途中,労災申請をするよう勧められ,私も労災申請を考えるようになったのです。
ところが,どういう訳か,検査後から,突然見知らぬやくざ風の男が自宅を訪れるようになりました。労災の件と言って私に面会を求めてきたのです。私の留守中は妻が応対していたのですが,妻は怯えきっていました。また,見知らぬ男から電話でドスのきいた低い声で「労災申請など馬鹿なことは考えるな」,「お前には中学生の子どもがいるだろ」と暗に息子に危害を加えるかのようなことも言われました。それ以外にも無言電話が頻繁にかかってくるようになりました。
得体の知れない者からの脅しに恐怖心が募っていきました。妻や息子に危害が加えられるかもしれないと思うと恐くなり,耐えきれず労災申請を断念しました。このとき勇気を出して労災申請をしていればと今でも後悔しています。
4 労災申請断念後,急性心筋梗塞で倒れるまで
労災申請断念後も吐き気や全身倦怠感,脱力感といった症状は続き,症状がひどいときは,医療機関で診察を受けたのですが,症状は改善しませんでした。
原発労働後,体調の異変により自分が責任を持って仕事をすることができなくなり,自営業を続けることは困難でした。そのため,体に負担の少ない土木工事アルバイトしかできず,生活は徐々に困窮していきました。アルバイトの現場で自分では一生懸命働いているつもりでも,周りの人からは怠けているようにしか見えなかったようで,現場責任者からは怠け者など度々罵られました。思うように動かない自分の体に苛立つとともに周囲の人の無理解さに憤りを感じることもありました。また,私の収入だけでは生活ができませんでしたので,妻にはパートに出てもらい,義母の年金からの援助,義兄からの援助を受けて生活していました。このときは自分自身が本当に情けなく,とても辛かったです。
生活に困窮して北九州の家を失い,福岡市に転居して,福岡市内の会社に就職し何とか勤務していましたが,平成12年3月,急性心筋梗塞で倒れてしまいました。緊急手術を受け奇跡的に一命を取り留めましたが,もはや働けない体となり,生活はさらに困窮していき,その後は義母の年金を頼りに,ただ生きているという状態が続きました。
5 労災申請
それから数年経ち,長崎大学に昭和54年にホールボディーカウンターで測定した私のデータの詳細が残っており,コバルト,マンガン,セシウムなど,通常であれば人体からは検出されるはずがない放射性核種が検出されていたことがわかりました。
外部被ばくだけでなく,内部被ばくもしていたことがわかった上,生活を何とか立て直そうと思い,平成20年9月,労災の申請をしましたが,不支給の決定で,審査請求,再審査請求も棄却されました。
私はすぐにでも労災給付を受けられると信じていましたが,私の主張は全く認められず,本当に絶望しました。
6 私の思い
絶望した私が今回の裁判を決意したのは,どうしても下請の原発労働者の過酷な労働実態を知ってもらい,原発労働により健康な体も財産もすべて失ってしまった私自身のつらさ・悲しみ・怒りについて,わかってもらいたいからです。
原発に行くまでは,自分の収入だけで生計を立て,北九州市に自宅を建て,子どもにも恵まれ,人並みの幸せな生活を送っていました。しかし,原発労働によって何もかも失いました。原発労働のせいでそれまで築いてきた幸せな生活も健康で丈夫な体も失ってしまったのです。妻だけでなく,義母や義兄にも随分と迷惑をかけました。労災申請も認められず,今では生活保護費を受給している状態です。心筋梗塞後遺症等を患い,いつ起こるかもしれない狭心症の発作のために,薬を手放せない体になってしまいました。
原発労働,特に下請労働者の労働実態は,本当に過酷で劣悪極まりないものなのです。しかも,放射性物質の危険性など誰も教えてくれません。誰か1人でも放射性物質の危険性を教えてくれていれば,私は,こんな体にはなっていなかったはずです。それが悔しくて腹立たしいのです。
福島原発事故の収束にあたっている下請の作業員にアラームメータなどの計測器を持たせずに作業させていたとの報道がありました。私が原発で働いていたときから30年以上が経過していますが,全く変わっていません。未だに,下請け原発労働者に過酷な労働が強いられ,その安全が全く守られておらず,腹立たしい限りです。
今後,原発を稼働し続ける場合には点検作業員が必要で,廃炉とするためには点検作業員の2,3倍の労働者が必要だと言われています。
日本に数多くの原発が存在し,そこで十分な安全対策がとられていない以上,これからも私と同じように原発労働者に多数の被害が出続けると思います。
これ以上被害者を出さないために,国が厳しく監視することが必要です。
裁判所は,原発労働者が部品のように使い捨てにされてきた事実を重く見て,私の被害が労災であることをしっかりと認めてください。
以 上
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平成24年(行ウ)第9号
意見陳述書
2012(平成24)年5月9日
福岡地方裁判所第5民事部合議B1係 御中
原 告 梅田隆亮
1 私の経歴など
私は,原告の梅田隆亮です。
北九州市で生まれ育ち,市内の大学を卒業した後,鋼材の加工・組立工事会社に就職し,その後,北九州市内で独立し,新日本製鐵の下請けとして,鋼材の加工・組立工事や配管工事等をしてきました。
2 原発での労働状況
私が島根原発と敦賀原発で作業したのは,昭和54年のことです。当時は,いわゆる「鉄冷え」により下請け工事の受注が激減し,生活に不安を抱えていたため,松江で稼ぎのよい仕事があると聞き,施設名も仕事内容もわからないまま,松江に行くことにしたのです。島根の施設が原発であることは,敦賀原発に行ったときに他の作業員から聞いて初めて気づきました。
島根原発では,放射性物質の危険性についての教育を受けたことは,一切ありません。放射線管理手帳はそもそも支給されてもいません。アラームメータを持たされてはいましたが,警報が鳴った場合の指示すらなく,結局警報が鳴っても無視して作業を続けていました。
敦賀原発では,炉心部近くで赤い作業服を着て,顔面をすっぽりと覆う全面防御マスクを付けて作業しました。ただ,粉じんを吸わないためのマスクだとしか思っていませんでした。建屋内の脱衣所で赤色の作業服に着替え,休憩室で簡単なミーティングをした後,マスクを装着し,アラームメータを持ち,歩いて管理区域内の道具置き場に行き,それぞれ指示された道具を手に,作業場となる炉心部へと向かうのです。炉心部に行くためには,2つの扉を通ります。1つめの重厚な引き戸の扉を開けると中には照明があり,暗がりというわけではなかったのですが,密閉状態でしたので,空気が淀んでおり,薄暗く感じました。
さらに,入口から15メーターくらい進んだところに2つめの扉があり,その奥に,私が作業していた炉心部があります。2つめの扉はすでに開いており,その扉に近づくにつれて段々と熱気を帯び,汗がにじみ出てきました。炉心部は,室温が40度から50度あり,湿度も高く,蒸し風呂状態でしたので,中に入った瞬間,体中が火照った状態となり,体中から汗が滝のように大量に流れ出て,たちまち下着がずぶ濡れになりました。全面防御マスクは付けているだけで酸素が薄くなり,息苦しかったのですが,さらに蒸し風呂状態の中でつけていたため,息苦しさが増し,すぐに意識が朦朧としてきました。その息苦しさは言葉では例えようがないほどつらく苦しいもので,1か月働いても全く慣れることはありませんでした。余計なことをすると体力が消耗するので,目の前にいる他の作業員に話しかけることもせず,ただこの場から早く立ち去りたい一心で作業ノルマをこなしていました。しかし,体力に自信のあった私でもその息苦しさに長時間耐えることはできず,マスクを外して作業せざるを得ませんでした。
持っていたアラームメータは炉心部に入ると,直ちに警報を発しましが,警報が鳴る度に作業を中断していては仕事にはなりません。そのため,線量の低い場所で待機している別の作業員にアラームメータを預けて作業することが暗黙の了解となっていました。今にして思えば,放射線管理者の職員がいたはずですが,誰が放射線管理者なのかも私たちには分からず,アラームメータを預けても注意されることはありませんでした。そんな状況でしたから,保管されている被ばく放射線量のデータなどでたらめだと思います。
これが,我々下請け原発労働者の実態です。
3 体調の変化及び労災申請の断念
私の体に異変が生じたのは,昭和54年6月,敦賀原発から北九州市に戻ってきてすぐです。腹痛,全身倦怠感,脱力感,吐き気,めまい,耳鳴り,鼻血といった症状が出たのです。特に吐き気がひどく,今まで経験したことのないものでした。1日のうち,3〜4回程度,突然胃がむかつき出し,胃液がこみあげてくるといった症状が,2か月近くも続いたのです。長年の肉体労働で体を鍛えており,人一倍健康には自信があったので,あまりの体調の急変に戸惑い,いくつかの病院を受診しましたが,はっきりとした原因は結局わかりませんでした。
その後,原発労働者の実態を書いた新聞記者の仲介で,長崎大学病院でホールボディーカウンター測定検査を受けたところ,放射性物質を被ばくしていることがわかりました。記者からは,帰宅途中,労災申請をするよう勧められ,私も労災申請を考えるようになったのです。
ところが,どういう訳か,検査後から,突然見知らぬやくざ風の男が自宅を訪れるようになりました。労災の件と言って私に面会を求めてきたのです。私の留守中は妻が応対していたのですが,妻は怯えきっていました。また,見知らぬ男から電話でドスのきいた低い声で「労災申請など馬鹿なことは考えるな」,「お前には中学生の子どもがいるだろ」と暗に息子に危害を加えるかのようなことも言われました。それ以外にも無言電話が頻繁にかかってくるようになりました。
得体の知れない者からの脅しに恐怖心が募っていきました。妻や息子に危害が加えられるかもしれないと思うと恐くなり,耐えきれず労災申請を断念しました。このとき勇気を出して労災申請をしていればと今でも後悔しています。
4 労災申請断念後,急性心筋梗塞で倒れるまで
労災申請断念後も吐き気や全身倦怠感,脱力感といった症状は続き,症状がひどいときは,医療機関で診察を受けたのですが,症状は改善しませんでした。
原発労働後,体調の異変により自分が責任を持って仕事をすることができなくなり,自営業を続けることは困難でした。そのため,体に負担の少ない土木工事アルバイトしかできず,生活は徐々に困窮していきました。アルバイトの現場で自分では一生懸命働いているつもりでも,周りの人からは怠けているようにしか見えなかったようで,現場責任者からは怠け者など度々罵られました。思うように動かない自分の体に苛立つとともに周囲の人の無理解さに憤りを感じることもありました。また,私の収入だけでは生活ができませんでしたので,妻にはパートに出てもらい,義母の年金からの援助,義兄からの援助を受けて生活していました。このときは自分自身が本当に情けなく,とても辛かったです。
生活に困窮して北九州の家を失い,福岡市に転居して,福岡市内の会社に就職し何とか勤務していましたが,平成12年3月,急性心筋梗塞で倒れてしまいました。緊急手術を受け奇跡的に一命を取り留めましたが,もはや働けない体となり,生活はさらに困窮していき,その後は義母の年金を頼りに,ただ生きているという状態が続きました。
5 労災申請
それから数年経ち,長崎大学に昭和54年にホールボディーカウンターで測定した私のデータの詳細が残っており,コバルト,マンガン,セシウムなど,通常であれば人体からは検出されるはずがない放射性核種が検出されていたことがわかりました。
外部被ばくだけでなく,内部被ばくもしていたことがわかった上,生活を何とか立て直そうと思い,平成20年9月,労災の申請をしましたが,不支給の決定で,審査請求,再審査請求も棄却されました。
私はすぐにでも労災給付を受けられると信じていましたが,私の主張は全く認められず,本当に絶望しました。
6 私の思い
絶望した私が今回の裁判を決意したのは,どうしても下請の原発労働者の過酷な労働実態を知ってもらい,原発労働により健康な体も財産もすべて失ってしまった私自身のつらさ・悲しみ・怒りについて,わかってもらいたいからです。
原発に行くまでは,自分の収入だけで生計を立て,北九州市に自宅を建て,子どもにも恵まれ,人並みの幸せな生活を送っていました。しかし,原発労働によって何もかも失いました。原発労働のせいでそれまで築いてきた幸せな生活も健康で丈夫な体も失ってしまったのです。妻だけでなく,義母や義兄にも随分と迷惑をかけました。労災申請も認められず,今では生活保護費を受給している状態です。心筋梗塞後遺症等を患い,いつ起こるかもしれない狭心症の発作のために,薬を手放せない体になってしまいました。
原発労働,特に下請労働者の労働実態は,本当に過酷で劣悪極まりないものなのです。しかも,放射性物質の危険性など誰も教えてくれません。誰か1人でも放射性物質の危険性を教えてくれていれば,私は,こんな体にはなっていなかったはずです。それが悔しくて腹立たしいのです。
福島原発事故の収束にあたっている下請の作業員にアラームメータなどの計測器を持たせずに作業させていたとの報道がありました。私が原発で働いていたときから30年以上が経過していますが,全く変わっていません。未だに,下請け原発労働者に過酷な労働が強いられ,その安全が全く守られておらず,腹立たしい限りです。
今後,原発を稼働し続ける場合には点検作業員が必要で,廃炉とするためには点検作業員の2,3倍の労働者が必要だと言われています。
日本に数多くの原発が存在し,そこで十分な安全対策がとられていない以上,これからも私と同じように原発労働者に多数の被害が出続けると思います。
これ以上被害者を出さないために,国が厳しく監視することが必要です。
裁判所は,原発労働者が部品のように使い捨てにされてきた事実を重く見て,私の被害が労災であることをしっかりと認めてください。
以 上
2012-11-20 09:31
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